見たこともないほど大きな橋に、ほわぁ、と阿呆のような声が漏れる。
いわゆる三途の川がここまでの大河だとは思っていなかったのだ。
現世でもなかなかお目にかかれないほど大きく、真っ黒な水の流れる川に、これまた現世でも見たことがない大きさの橋がかかっている。
────地下に川が流れてるなんて、信じられないよ……!
ふたりはあの後、禁域の苗代郷に戻った。そして、比良坂社の祭壇裏に隠されていた階段を下って、ここまでやってきたのだ。
先祖供養の場所だとばかり思っていた比良坂社の思わぬ裏道にも驚いたが、その先はそれ以上の驚きの連続だった。
そわそわしている六花に、皐月が手を差し伸べる。
「ここから先が幽冥地府です。あなたが入れるように話は通してありますから、橋を渡る間は私の手を離さないでくださいね」
そう言う皐月に、六花はさっきのやり取りを思い出す。
『……ついていくって、どこに?』
六花の問いに、皐月は迷いなく、ひとこと答えた。
『幽冥地府へ』
『へ……?』
驚きに、思わず声が漏れる。幽冥地府、なんて名前がついてはいるが、要は『あの世』のことだ。
────まさか、あたしを殺す、って言ってるわけじゃないよね……?
思い当たる可能性に、流れる冷や汗。
なんとか逃れるすべはないかと、六花はおどけた言い方をしてみる。できれば、冗談であってほしい。
『や、やだな〜! あたし、まだ死んでないよぉ〜! ……え、死んでないよね⁉』
今から殺す、と言われたらそれまでだが──しかし皐月の表情は、泥道でかばってくれた時と同じく、真剣だった。
『詳しいことは、ここでは言えませんが。……私がいれば、大丈夫です。必ず生きたまま現世へお帰しすると、約束します。それに、』
そこで皐月は、言葉を切った。切れ長の瞳が、六花を見つめる。
嘘でも冗談でもない、とわかってしまうような、まっすぐな、こいねがうような目。
『それに、私が六花を死なせるなんて、そんなことはありえません。傷つけることも、ありません。……絶対に』
絶対に、という部分を、いやに強調した言い方だった。
『六花がいやだと言うなら、無理強いはしません。来たいと思うなら、この手を取って。いやだと思うなら、振り払ってかまいません』
差し出された白い手。その手を見つめて、六花は逡巡する。
────本当に、信じていいのかな。
頭に浮かんでは消えていくのは、嫌な想像だ。
────幽冥地府は、五大山の忌み嫌う異界。皐月の言葉が嘘だったら、あたしはもう二度と、現世に戻ってこられない……。
腹の底がしんと冷えて、呼吸まで浅くなる。六花は、胸の奥に広がる怯えに呑まれそうになりながらも、顔を上げた。皐月は目を逸らさず、まっすぐ六花を見つめている。
姿こそ違うけれど、泥道で守ってくれた時と同じ──その表情に、こわばった胸が、すっとほどけていくのがわかった。
────自分で言ったじゃんか。あたしの言葉を信じてくれて、命がけで助けてくれた、って。
疑念を打ち消すようにかぶりを振ると、六花は皐月の手を取った。
切れ長の瞳を見つめ返して、ほほえむ。
『……行くよ。あたしを信じてくれた、皐月を信じる』
────芙蓉の言う通りだったかなぁ。皐月が悪人じゃないって、証拠があるわけでもないし。
六花はこっそり後ろを振り返る。入ってきた比良坂社は、とうにはるか彼方。こんなところまで、のこのことやってきてしまった。
「振り払ってかまわない」と告げたときの皐月が、どこか思いつめたような表情をしていたから。
だから、とちゅうで帰ると言いだすのも酷な気がして──気づけば幽冥地府の入り口に立っていた、というわけだ。
握った皐月の左手はよく手入れされていて、六花は泥や乾燥でがさついた自分の手が恥ずかしくなってくる。
「……皐月の手、すべすべしててきれいだねぇ」
つい口に出してしまってから、はっと気付く六花。
────あたし、もしかして恥ずかしいこと言っちゃった……?
いっぽうの皐月は虚を突かれたような顔をして、自分の手と六花の手を見比べる。
そして、言葉を選ぶように逡巡してから、ぽつりとつぶやいた。
「あなたの手のほうが、ずっときれいですよ」
黙ったまま、皐月は橋を渡っていく。
その左手は六花の右手をがっしりと捕まえたままで、びくともしない。
────手汗、かいてないかな。心配になってきた。
六花の心配をよそに、橋の中ほどでふいに皐月が立ち止まった。
しばらくこめかみに手をあてて固まったあと、袖の中から何かを取り出す。
「……扇子? 皐月、どうしたの?」
六花が怪訝に思った次の瞬間──ただ薄暗いばかりだと思っていた空から、ざあっと水が降ってきた。まるで夕立だ。
「うわっ!?」
皐月が、六花をぐっと抱き寄せる。
扇子はこのために──雨から自分を守るために出したのだと、六花は遅れて理解した。
「びっくりしたぁ! 幽冥地府でも雨って降るんだね」
「……雨というか。でも、あなたが濡れていないのなら、何よりです」
突然降り出した雨は、栓でもしたようにぴたっと止んだ。皐月と六花は、大きな橋をようやく渡りきり、対岸へとたどり着く。
すると、待ち構えていたようにふたりの女が姿を現した。皐月を目にするなり、揃って恭しく頭を垂れる。
ひとりは、白い着物を着崩した、蓬髪の老婆。
もうひとりは、黒い小袖をぴしっと纏った、おかっぱ頭の少女だ。
「おかえりなさいませ、猊下」
少女のほうが先に口を開いた。
身長は六花より少し低いぐらいで、歳も十五、六に見える。しかし、その声は落ち着き払っていて、とても見た目にはそぐわない。まるで官吏のようだ。
「申し訳ございません、孟婆さまが誤って 『忘れ雨』 を降らせてしまいました。大切なお客様がいらっしゃるというのに、この紅葉の管理不足でございます」
そう言うと、少女はさらに深々と頭を下げた。
老婆も、蓬髪をくしゃりとかきあげながら、気まずげに顔を上げる。
「奈落さま、すまねぇ。言い訳になっちまうが、直前の亡者がゆっくり歩くもんで、閉じそこねちまってよ」
皐月──『奈落』は、ふたりの謝罪に鷹揚にうなずいた。
「すぐに念話を飛ばしてくれたおかげで、問題なかった。ふたりとも忙しいところすまなかったな。こちらの都合で」
紅葉と孟婆は顔を見合わせて、ほっと安堵の息をつく。どうやらこのふたりは、『奈落』の部下にあたるらしい。
────なんだか、あたしのせいで謝らせちゃった感じだなぁ。
六花はちょっと迷った末に、一歩前へ出て頭を下げた。
「あの、おふたりとも、ありがとうございました! 謝らないでください。あたしなんか、雨でも泥でも、全然へっちゃらですから!」
その言葉に、ふたりは驚いたように目を見合わせて、それからふっと微笑みあった。
「在下には、もったいないお言葉です」
「さすが奈落さまの……あっ、いやいや! やだねぇ、歳をとると余計なことばっか喋っちまって!」
「孟婆さま。もうそろそろお仕事にお戻りくださいませ」
がっはっはと笑う孟婆に、生真面目に注意する紅葉。六花が思わずくすりと笑ったその時、片手をぐいっと引くものがあった。
皐月だ。喜んでいるような、怒っているような──難しい顔をして六花を見ている。
「ごめん。あたし部外者なのに、しゃしゃり出ちゃったかな」
いえ、と皐月は返した。くっと下唇を噛み締めている。
「私が……未熟なだけです」
紅葉と孟婆に背を向けると、皐月は六花の手をぎゅっと握った。もう片方の手で胸元に印を組み、何事か小声で唱える。
すると──押し沈められるように重さがかかり、すぐにふっと軽くなった。
「……ごめんなさい、目を開けて大丈夫です」
びっくりして目を閉じていた六花は、皐月の声に促され、おそるおそる目を開けた。
「ここは……」
視界に飛び込んできたのは、五大山の伽藍にも引けをとらない、美しい内装の建物だった。
白木の円柱で支えられた高い天井。やわらかな灯りが、厚い絨毯敷きの床を照らしている。どの調度品も、長く使われた跡を残しながら、丁寧に手入れされていた。
似ている、と思った五大山の伽藍は、拝礼の場らしく気高く、どこか近寄りがたい。しかしこの建物には、豪奢ながらまた違う温度があった。誰もを受け入れくつろがせるような、やさしい造りだ。
呆然と見回していると、いつの間にか手を離した皐月が、そっと手ぬぐいを差し出してくれていた。
「ここは幽冥地府の中心、閻魔庁です。聞きたいこともたくさんあるとは思うのですが……まずは体を清めて、食事をとりませんか?」
そう言われた瞬間、ぐぅ、と盛大に腹が鳴って、六花は思わず顔を赤らめた。
「えへへ……朝からなんにも食べてなくってさ」
村人たちの荷造りを手伝い、そのまま幽冥地府まで来てしまったのだ。言われてみれば、法衣も汗や泥でずいぶん汚れている。
────たしかに、この状態で幽冥地府にお邪魔するのって、ちょっと失礼だったかもな。
六花は、差し出された手ぬぐいを受け取ると、案内に従って湯屋に向かった。建物はずいぶん広く、ひとりだったら間違いなく迷子になっていただろう。役人の詰め所──いや、それ以上。大人数が使うことを前提とした、大規模な建物だ。
途中で足を止めた皐月が、静かに前方を示す。
「ここから先が湯屋です。人払いも済ませていますから、ゆっくりくつろいでください」
皐月の背中を見送ると、六花はそうっと扉を開けてみた。
まず目に入ったのは、三十人は一度に着替えられそうな脱衣場。その奥では、大きな岩風呂がもうもうと湯気を上げている。
────こんなの、五大山でも見たことないよ!
蒸し風呂が主流な上、遊行者の多い五大山では、そもそも大きな浴場を整備する必要があまりない。
出家する前は街で育った六花も、ここまで立派な大浴場は見たことがなかった。汚れた法衣を脱ぎ、手ぬぐいを片手に、はやる足で浴場へ飛び込む。
身を清めて岩風呂の湯に身をしずめると、ほうっと身体がゆるんだ。肩までつかり、自分の白い膝をぼんやり眺めていると、今日見聞きしたことがいくつも立ち現れては消えていく。
「わけわかんないことばっかりだなぁ。怪異は襲ってくるし、皐月はいきなりでっかくなっちゃうし」
その中でも皐月の法術は、思い出すと思わず口元がゆるむ。芙蓉がここにいたら「笑ってる場合ですの!?」とぷりぷり怒っていただろう。
風呂だって、穿って見れば身ぐるみを剥がす口実になると、頭ではわかっている。
それでも、どうしても六花には、皐月を『悪い人』だとは思えなかった。
「仕掛け罠も……あれ、結局なんだったんだろ」
考えてもしょうがないと、六花は自分の頬をぺちんと叩く。湯を押しのけて立ち上がり、蒸気のなかで伸びをした。
「お風呂、ありがとね! すっごい広くてびっくりしちゃった。法衣まで気を使ってもらって、助かったよ」
新しい法衣に袖を通し、六花は元の広間に戻ってきた。自分で持ってきた記憶はないから、皐月が用意してくれたのだろう。それにしても、驚くほど丈がぴったりだった。
見れば、大きな卓の上にはすでに、手の込んだ料理がところ狭しと並べられている。
その脇では、さっきの少女──紅葉が配膳の仕上げにかかっていた。小さな手が滑らかに動いて、漆塗りの箸をちゃきちゃきと並べていく。
「それは良かったです」
満足げな顔でうなずく皐月。
その言葉にこたえるように、紅葉がさっと椅子を引いて、六花に着座を促した。
目の前では、白い米がたっぷりと椀に盛られている。炊きたてのようでふっくらと一粒一粒が粒立ち、見ただけでその甘みが想像できた。
添えられた汁物は魚を煮込んだものらしく、潮の香りと出汁の香りがかさなって、鼻をくすぐる。
五大山ではめったに口にできない肉料理も添えられていた。甘辛く煮付けられたそれは、つやつやと照っていかにも美味しそうだ。
小鉢は春野菜をうまくあしらっており、色合いと繊細な盛り付けは目にも楽しい。
ふだんの食堂の食事よりも遥かに豪華な料理の数々に、六花はそわそわしてしまう。腹の虫も早くはやく!とわめいて、落ち着かない。
「どうぞ。あなたのために作りましたから、遠慮なく」
「えっ、皐月が作ったの!?」
目を丸くする六花に、皐月はちょっと恥ずかしそうにうなずいた。
「……お口にあわなかったら、ごめんなさい」
────おいしくないわけ、ない!
六花はぱっと顔を上げると、早速手を合わせた。
「いただきます!」
まず箸をつけたのは、つややかな肉の煮つけだ。
口に入れれば、醤油と砂糖の甘じょっぱい味がじんわりと広がった。やわらかく煮込まれた肉は、歯をいれるそばからほぐれる。炊き立てのお米と一緒に口に含めば、たれがしみ込んだ米と肉がじゅわっと合わさってなんとも言えないおいしさだ。
そこにすかさず汁物を一口。魚のうまみがきいた出汁があたたかいまま喉をすべりおちて、胃の腑に落ちていく。
箸をとめる間も惜しいほどのごちそうに、六花は夢中でほおばりながら、ちらりと皐月のほうを見た。
「皐月をお嫁さんにするひとは、幸せだねぇ。あたしだったら、毎日だって皐月のごはん食べたいよ!」
もぐもぐ詰め込みながら、六花は思わずつぶやく。
豪華な献立に申し訳なさを感じつつも、口に運ぶのを止められない。それほど、おいしいのだ!
「……そ、そうですか?その……」
なぜか、顔が赤い皐月。
その、の先を測りかねて、六花は首をかしげた。
「?」
「いえ! なんでもありません。六花のお口にあったなら、何よりです」
頬をいっぱいにした六花を見て、皐月も箸をとる。汁物をひとくち飲み下してから、口を開いた。
「無理に招いてしまい、申し訳ありませんでした。聞きたいことがあれば、何なりと」
そう言われ、六花もやっと箸を止める。
────そうだった。がっついてる場合じゃない!
気になること、と言われれば、いくらでもある。しかし「なんでも尋ねてください」と言われてしまうと、かえって答えづらい。
六花はそう冗談を言おうとして、ふと思い至った。
────そういえば、どっちが本当の名前なんだろう?
さっきの紅葉と孟婆は皐月のことを『奈落』と呼んでいた。『皐月』というのは、偽名なのかもしれない。
「ねぇ、きみのことはなんて呼んだらいいのかな。『奈落』が、本当の名前?」
「……どうか今まで通り、皐月と呼んでください。あなたに奈落と呼ばれると、その」
皐月の顔に、わずかに苦い色が浮かぶ。
────そっか。あたし、閻魔庁の関係者じゃないもんね。その名前で呼ばれたら、不都合なこともあるか。
五大山も同じだ、と六花は思った。与えられた肩書や名前は僧侶を守るが、同時に縛りもする。
紅葉と孟婆の存在からも、皐月はある程度の身分の持ち主なのだろう。
「『奈落』というのも、偽名ではありません。名号です」
その表情がさらに硬くなる。そして、震えを抑えたような、かすれた声が絞り出された。
「──閻魔王と、しての」
「閻魔王?」
思わぬ単語に、六花は思わず復唱する。
長いまつ毛を伏せる皐月。その姿は、何か怒られたり、責められたりするのを恐れているように見えた。
「はい。……地府の十王が一角、第一〇八代閻魔王──奈落。それが、私のもうひとつの名前です」
六花はふぅん、と首を傾げる。
「そっか。じゃあ、あの怪異は、皐月を裏切ったってことになるのかな」
その言葉に、皐月の目が見開かれた。
いつもの落ち着いた表情とうって変わって、年相応にあどけない、驚きの表情だ。戸惑うように、声が絞り出される。
「六花は、私が閻魔だと聞いて……その、怖くないのですか? 嫌じゃ、ないのですか?」
「うん。さっきも言ったでしょ、皐月はあたしの言葉を信じて、命がけで守ってくれた。それで充分じゃない?」
閻魔王──幽冥地府の主にして、地獄の王。死者を裁く、黄泉の国の盟主だ。
それはすなわち、この世をばわが世とぞ思う五大山の、最後の天敵。
────だから、なんだっていうんだろう。
六花はしっかりと皐月を見つめ返した。百の言葉より、ひとつの行動だ。
「閻魔王だとしても、それが皐月の全部じゃないでしょ。身分や肩書きより、その人が実際『なにをしたか』のほうがよっぽど大事だって、あたしは思うよ」
「……そう、ですか」
皐月の愁眉がちょっとだけ開かれて、六花もほっとする。
しかし、その胸の奥にはまだ、解けないもやもやが残っていた──怪異のことだ。
「それより、さっきの怪異だよ。なんであんな所にいたんだろうね」
視線を落として、六花は考え込む。
────もちろん、皐月が狂言をしかけた可能性がないわけじゃない。
まるで仕組まれていたかのように、皐月の登場と怪異の襲撃は符合する。
それでも、六花はやっぱり、彼女を疑ってはいなかった。
────仕掛け罠の怪異は、自我をなくしてた。それに、自ら手を汚さないあの仕掛け方は……五大山の密殺法、そのものだよね。
なにより、六花はその瞬間の皐月の表情を、誰より近くで見ていた。とっさに庇ってくれた、あの瞬間の動揺が演技だったとしたら──彼女は、たいした役者だ。
「……あの怪異について、ですね」
皐月は少し沈黙した。
ごまかそうとしているのではなく、言葉を慎重に選んでいるように見える。
「あまり大きな声では言えないのですが……ここのところ、怪異の『行方不明』報告が相次いでいるのです」
「行方不明?」
六花が眉を上げると、皐月は『奈落』の顔で頷いた。
「幽冥地府は、六花たちが思うよりずっと現世に似た場所です。怪異も亡者も、閻魔庁の敷いた法のもとで暮らし、裁かれています」
六花は、さっきの孟婆や紅葉の姿を思い出す。
五大山の人間はみな好き勝手に想像しているが、彼女たちとひとことでも交わせば、たちまち考えを変えるに違いなかった。
「もちろん、あまりにも危険なものは、冥官が監視下に置いていますが」
「……そいつらが監視の目をすり抜けて、現世に逃げてきてるってこと?」
「いえ。今のところ、その線は薄いとみています。そもそも、行方不明者の多くはそういった手合いではありませんでした」
皐月は目を伏せた。冷静に話してはいるが、その声には痛みがにじんでいる。
「むしろ、穏やかで素行もよいものばかりで。あの怪異──姑獲鳥も、行方不明者のひとりだったそうです。先ほど、弾正台から報告がありました」
「皐月、幽冥地府に送ってあげてたんだ!」
六花は、ほうっと息をついた。てっきり消滅させられたとばかり思っていたのだ。
────生きていてくれたなら、よかった。怪異でも人間でも、命を奪わずにすむなら、そのほうがいい。
「事情聴取もしていますが、心身を喪失しているようで……有用な情報は、今のところなにも」
「心身喪失かぁ……」
「ですから、私はまだ、裏切られたとは思いたくないのです」
六花はなんと声をかけていいかわからず、眉を下げる。
人を守るためにとっさに体が動く皐月。閻魔王として、怪異たちの身を案じる皐月。
────……力に、なってあげたいな。あたしにできること、何かないかな。
思案しかけたとき、奥の扉が静かに開き、紅葉が顔をのぞかせた。
その手には、うやうやしく茶盆がささげ持たれている。
「六花さま、猊下。食後のお茶はいかがでしょうか」
紅葉が卓に茶盆を下ろすと、茶葉のひらくよい香りがふわりと立ちのぼった。六花は勧められるまま湯呑を受け取る。
その向かいで、皐月も同じく湯呑を受け取りながら、紅葉になにか耳打ちしていた。
「承知いたしました。すぐにお持ちします」
紅葉は軽くうなずくと、足音もなく下がっていく。
しばらくして、六花が杯を干す頃合いを見計らったかのように、足音が戻ってきた。
その手に握られているのは、大きな鍵。
年季の入った重厚な鍵は、食卓にはまるで似合わない。紅葉の意図がわからず、六花は首をかしげた。その様子に、皐月がためらいがちに口を開く。
「六花。あなたに、お返ししたいものがあります」
「……あたし、なんか貸したっけ?」
六花は思わず、眉根をよせた。
────冗談……いや、皐月に限って、それはないか。
皐月の顔は真剣そのもので、胸の奥にざわりと波が立つ。
頭にぽっかりと穴が空いたような思い出せなさ──それは、記憶をなくして以降、しばしば覚えのある感覚だった。促されるまま、六花は彼女の後を追う。
静まり返った回廊をぬけ、皐月の先導でたどり着いたのは、重厚な扉の前。頭上には「宝物庫」と記された額が掲げられている。
「もう少し、掃除をしておけばよかったですね」
そう呟きながら、皐月は迷いなく鍵を差し入れると扉を押し開けた。
普段はあまり人が立ち入らないのだろう。中は冷え冷えとして、空気もどこか張り詰めている。そこに所狭しと並ぶのは、武具だ。剣、刀、金棒……それに使い方のわからない、恐ろしげな拷問器具。
それらの奥に、ひときわ綺麗に整えられた一角があった。重厚な木の台座に、細長い玻璃の匣が納められている。
皐月は迷いなく匣を開け、中から棒状のものを取り出した。
六花の背丈ほどある長い棒の先には、金属の環。その環に、さらに六つの遊環(金属の細い環)がぶら下がっている。いわゆる『錫杖』の形だ。
「この錫杖は、号を『善果』といいます」
皐月は『善果』を六花に差し出した。伸ばした手と手が触れ合って、わずかにぬくもりが流れ込む。
「どうしても、あなたに返したくて。……覚えて、らっしゃいますか?」
その声には、期待と少しの寂しさが混じっていた。
────皐月に、嘘はつきたくないな。
六花はわざと明るく、ちょっと笑いながら言った。
「ごめん。昔のこと、病気でほとんど思い出せなくなっちゃっててさ。あはは……」
皐月は一瞬だけ瞠目して、たちすくむ。
「それは……」
「きっと、その頃のあたしが迷惑かけたってことだよね。長いこととっておいてくれて、ありがとう」
「……いえ、迷惑など、とても」
無理に作ったような皐月の微笑みに、胸が痛くなる。
なんだか目を合わせていられなくて、六花は錫杖に視線を落とす。『善果』と名付けられたそれは、見た目に反してすっきりと軽かった。
そっと握りこめば、不思議と手になじむ。きっと、いい材をえらび、腕のある職人がこしらえたものなのだろう。
────昔のあたしがどっかに置き忘れちゃって、思いがけず幽冥地府に流れ着いた……そんなとこかなぁ。
皐月は宝物庫の鍵を締めながら、ちらりと六花を見やる。
言おうか、言うまいか、迷っているような態度だ。その視線がなんだか子どものようで可愛らしく、六花はつい気になってしまう。
「どうしたの、皐月」
とうの皐月は、六花に気付かれているとは思ってもいなかったらしい。一瞬だけ目を丸くすると、思いつめたように言葉を絞り出した。
「その、これからも……時々、あなたのところに行ってもいいですか。行方不明者の件も、ありますし」
「もちろん! ああでも、いちど遊行に出るとあちこちフラフラしちゃうからなぁ」
「あなたが念話で呼んでくれれば、私は現世のどこへでも向かいます。……少し、手を貸してください」
六花のがさついた手のひらを、皐月の手がうやうやしく取った。
指先に伝わる、つめたい法力。それが変にくすぐったく感じて、六花は思わずふふっと笑ってしまう。
「……なぜ笑うんです」
そう言ってむくれる皐月の表情は、少女の時と変わらない。余計に笑みが深くなる六花。
現世に帰ることを考えて、六花の頭にひとつ『名案』が浮かんだ。
「そうだ! 苗代郷に戻るついでにさ、皐月のおいてきちゃった『大切なもの』、取りに行ってくるよ。なんだったの?」
「いえ、大丈夫です。……取り戻しましたから」
皐月はそう言いながら、六花の手をやさしく撫でる。
六花は首を傾げた。いまの皐月が「貴くて美しくて」「手元にあれば生死すら問題ではない」ほどのものを持っているようには思えない。もう片付けてしまったのだろうか。
その手をとったまま、皐月は印結する。
途端にまた視界が暗くなり──再び目を開けると、六花はひとり、もとの比良坂社に立っていた。
────ほんと、狐につままれたみたいな術だなぁ。
しかし、たしかに六花の手には皐月の感触と、動かぬ証拠の錫杖が残っている。
〔あ……あ〜、もしもーし、皐月、聞こえる?〕
さっそく念話を飛ばすと、すぐに皐月からの応答があった。
〔聞こえますよ、六花。……何かありましたか?〕
〔ううん、呼んでみただけ!〕
なんだか温かい気持ちになった六花は、足を弾ませて山道をたどり始める。
────五大山に向かおう。
六花の頭には、ひとつの考えがあった。
「怪異の出没」。それが、五大山による禁域指定の理由だ。でも、もしそれが、悪意なき怪異の行方不明事件だとしたら──
五大山の威光は大きい。その気になれば、被害者だってすぐに見つけられるだろう。
────吉野も、きっと話を聞いてくれる。
それに、山主にまで登りつめた彼女ならば、禁域の解除も不可能ではないかもしれない。
六花は顔を上げると、勢いよく山道を踏みしめた。