荷物をいっぱいに載せた大八車が、ぬかるみに足を取られている。
「お兄さん、ちょっと待ってて! 車輪がはまり込んじゃってるみたい」
六花は車を牽く男性に声をかけると、ふっと気合を入れて車輪をぬかるみから引き抜いた。湿度が高く、かいた汗は墨染の法衣にじっとり残る。
「ここのところ雨だったから道が悪いな。みんなごめんね、こんな道しかなくて」
「六花さんが謝ることじゃあねぇよ、晴れ間のうちに出られてよかった。それこそ、雨だと往生すっからなぁ」
空を仰いで、男が答える。
そのすぐ横から、大きな風呂敷包みをかかえた老婆も首を突っ込んだ。
「五大山も本当に迷惑なこったよ! 怪異が出たからって何だい。ご先祖代々の苗代郷を離れなきゃならないなんて、納得いかないね!」
「そうだなぁ。おれんとこの田んぼなんて、代掻きまでしちまった。もう戻れねぇのかなぁ」
「でも、怪異ってあの世の化け物なんでしょう? そんなやつがほんとに現れたら、私たちじゃかないっこないよ。五大山の言うことを聞いてれば、守ってもらえるんだから……」
赤子を抱いた女が歯切れ悪く言い返し、山道には重い空気が流れる。
疎開の車列はひとかたまりになって、やっと坂を越えたところだ。男が、はっとしたように口を押さえた。
「あっいや、六花さんも五大山の人だったよなぁ。五大山全部を悪く言ったわけじゃねぇんだ。気を悪くしないでおくれ」
「ううん、おばあちゃんの言うとおりだよ。怪異が出たからハイ禁域、って、判断が簡単すぎるよね。あたしも全然、納得いってなくってさ」
そこでふと、集団の先頭を行く子どもが、はしゃいだ声を上げた。
「あっ! ねぇ、おうちが見えてきたよ!」
視線を上げれば、山道の先にはたしかに小さく集落が見えてきている。
「おお! そうだそうだ、ついたらまず向こうのおじさんに挨拶して……ああっ、手土産をどこにしまい込んじまったかな」
「あんた、一番大事だからって一番最初に積み込んどったがね。全部下ろさんと出せんよ」
「そうだった! うわぁ、これは大変だぞ……!」
ひとりのドジに周りがどっと笑う。空気もなんだか明るくなって、六花はほっと胸をなでおろした。
それから一刻ほど歩きつづけて、車列はやっと集落にたどり着く。
苗代郷の疎開者たちは荷物を降ろすと三々五々、それぞれが身を寄せる家に向かっていった。挨拶や荷解きが終われば、いよいよこの村で暮らすのだろう。
────禁域の様子、もう一度見に行こう。吉野にも、案外平気だって教えてあげなくちゃ。
ふうっとひと呼吸つくと、六花は山道に戻るべくきびすを返す。
足を踏み出しかけたとき、ふと背後から声がした。
「苗代郷に戻るんですか」
振り返れば、十五、六ぐらいの線の細い少女が立っている。
豊かな黒髪を後ろに流して、まとうのは薄灰の着物。歳のわりに落ち着いた佇まいだ。
「そうだけど……きみは、この村の子?」
「いえ、苗代郷のものです。大切なものを置いてきてしまって」
少女は六花の目を見て答える。
その瞳は黒ぐろとして、どこか悲しげだ。じっと見つめると吸い込まれてしまいそうで、六花は思わず瞬きする。
────こんな子、さっきの村にいたっけな。
どこかで見たような顔だ。しかし、さっきの村かといわれると、違う気もする。
────もっと前……? そうだ、今日の変な夢に出てきた、あの子に似てる。
浮かんだ考えを、頭を振って振り払った。
夢のことよりも、目の前のことだ。この困った顔をした子を、放ってはおけない。六花は笑って、いつもの調子で声をかけた。
「一緒に取りに戻ろう! 怪異が出たって、あたしがなんとかするよ!」
「ありがとうございます。とても大切なものなので、助かります」
少女はこくんとうなずくと、六花に続いて山道に足を踏み入れた。
ぽかぽかした春の陽気に山も笑っている。特に天気のいい今日みたいな日は、外に出るだけで気分も晴れるというものだ。
明るさにあわない沈黙に、六花はひとつ伸びをして口を開く。元来、あまり黙っていられないたちなのだ。
「あたし、五大山の行者で、六花っていうんだ! きみ、名前はなんていうの? ご両親はもう向こうのおうちにいるのかな。あとあと、置いてきちゃったものってなぁに?」
そこまで矢継ぎ早に尋ねてから、六花はやっと、少女の繊細な部分に踏み込んでしまったかも、と気付いた。
手足をわたわたと振って、言葉を付け足す。
「あっ、答えたくないことがあったら、無理に言わなくて大丈夫。あたし、黙ってるのって苦手でさ」
「まず、一つ目の質問ですが」
少女は動じることもなく、少し目を伏せたまま答える。
「皐月といいます、田植えの季節に生まれたので。つぎに二つ目の質問ですが、両親は幼いころに亡くしました」
────聞かなくていいこと、聞いちゃったな。
六花は、さっきの軽率な質問を後悔した。
親を失った子が珍しいわけでもない。だが、そこに触れられて嬉しい人もいないだろう。
「世話をしてくれたひとはいます。……ただ、その人とはずいぶん前にはぐれてしまいました」
こともなげに皐月は言う。
その声からは感情が読み取れず、六花はそうっと少女の表情をうかがった。
「三つ目の質問、私がおいてきてしまったもの、ですね。……とても大切なものです。貴くて美しくて──手元にあってくれれば、わたし自身の生死すらどうでもいいぐらい、大切なもの」
そう話す皐月の顔は、こんどはどこか嬉しげだ。伏せたまつ毛がふるりとふるえて、六花を見上げる。
暗くなってしまった空気を払拭しようと、六花はその話題に飛びついた。
「それは絶対取りに帰らなきゃだね! かんざしかな、それとも櫛や鏡? きっと、とっても素敵なものなんだろうねぇ」
「……ええ、そうですね。お金では買えない、かけがえのないものです」
話しながら進むうち、あたりはいよいよ山深く、見通しも悪くなってきた。
道取りは違うが、さっき大八車が足を取られたあたりだ。
「足元に気をつけてね、この辺は地面が悪いから」
六花の声が、木立に吸い込まれる。
そのとき、どこかでかすかに、びん、と音がした。例えるなら、弦でもはじいたような──
「……六花、伏せて!」
瞬間、空気を切る鋭い音。
皐月は六花の腰を抱きよせ、そのまま地面を転がった。
「うわっ!?」
ふたりの頭のあったあたりを、矢のようなものがかすめていく。一本や二本ではない。それに、明らかに人の力ではない斉射だった。
「六花、無事ですか」
皐月は覆いかぶさった姿勢のまま、心配そうに六花の顔をのぞきこむ。真剣そのもののまなざし──それが、いやに熱っぽく感じて、六花は思わず目をそらした。
────……いやいや、そんなこと考えてる場合じゃないでしょ。
不純な気持ちを振り払うように、矢の飛んできたあたりに目を凝らす。弓の姿は、見えない。
────人の気配もしない。術を使った仕掛け罠の可能性が高いけど、法力自体は五大山らしくない。強いていうならこの気配は……
「怪異の、陰気……?」
六花が口に出すと、皐月も反応する。
「それにしては、妙ではないですか。怪異がいるのであれば、陰気はもっと強いはずです」
「そう、だよね。それに……」
『陰気』というのは、怪異や幽冥地府のものが持つ、うすら寒いような特有の気配のことだ。
六花は、五大山を出る前に聞いた、陰気の話を思い出す。内容は覚えているものの、こうして実際に感じてみるとやはり印象が違った。
ついでに目の前の状況から、もっと嫌な話もひとつ思い出されてくる。
「それに、この仕掛け方、五大山がこっそり人を消すときのやり方にそっくりだ」
山主どうしの権力争いで、『そういう手段』が使われることもある、というのは、吉野から聞いた話だった。
内心ため息をつきながら、六花ははたと気づく。
「皐月、なんだかやたら詳しいね。五大山にいたこと、あったりする?」
ふいっと目を逸らす皐月。
「……ありません」
何かを誤魔化していることは明らかだ。
でも、その様子がなんだかいじけた子どものようで可愛らしく、六花は吹き出してしまった。
「笑わないでください」
「ごめんごめん。いいよ、言いたくなったらまた教えて。今は一緒に、この場を乗り切る方法を考えよう」
泥だらけのまま笑ってみせる六花。皐月の顔からも、不服げな色が消える。
「陰気の方向から、仕掛けのある箇所はなんとなくわかりました。ただ、解除できるかはわかりません」
ふかい、黒ぐろとした瞳が、六花のとび色の目をじっと見つめた。胸の奥に、懐かしいような鈍痛が走る。
────なんだか、初めて会った気がしないな。この瞳を、どこかで知っている、ような……。
「陰気の方向から、仕掛けのある箇所はなんとなくわかりました。ただ、解除できるかはわかりません」
引っ掛かりを飲み込んで、六花はうなずいた。
「うん、あたしが仕掛けを解除するよ。大体の場所を教えて」
皐月はそっと、六花の手を取って先導する。
茂みをかき分け、水たまりを避けて、法衣のすそが汚れないよう進んでいった。
「こっちです。……その、さっきは泥の中に転ばせてしまって、すみませんでした」
「気にしないで! あんなところで矢が飛んでくるなんて、思わなかったもん。皐月のおかげで命拾いしたよ」
汚れた法衣に眉を下げる皐月へ、六花は笑いかける。
正直、この少女の胆力に驚いてもいた。あの状況でとっさに人を庇うのは、誰でもできることではない。
────芯の強い、心根のいい子。あたし、こういう子に弱いんだよなぁ……。
遊行をしていると、いろいろな人に遭う。利己的な人、平気で人を陥れるような人──もちろん平等に接しはするが、皐月のような人間にはつい甘くなってしまう。五大山僧とはいえ、人には変わりない。
「攻撃されたのは、あの道を通った瞬間でした。ということは、特定の標的や起動の条件があったんでしょうか?」
ウサギや猪を捕まえるように、と、手振りで示す皐月。
「わかんないけど……どっちにせよ、このままほっとけないよね」
じっさい、六花には罠の正体も狙いも、まったくわからなかった。けれど、このまま見ないふりもできない。
「禁域につながるって言ったって、誰が通るかわかんない道だし。もし、あたしたちみたいに体が動かない子どもや、お年寄りが通ったらと思うとさ……」
想像して、六花は身震いする。
ここで逃げるのは簡単だ。でもあとで、「苗代郷で変死者が」なんて聞いてしまったら──。六花は眉を下げて、にへらと笑った。
「なんて言って、あたしがそういうの、見たくないだけ。後悔したくないだけだよ」
「……あなたは、昔から」
皐月が何か言いかけたその時、ふたりの足がぴたりと止まった。
低木の茂みの奥に、獣道が伸びている。その光景に、妙な引っ掛かりを覚えたのだ。
「ねぇ、皐月」
「ええ。……獣道に見えますが、違いますね」
「それっぽくしてあるけど、刃物で刈ったあとが隠せてない。それに、頭の上……ちょうど人の背ぐらいで枝払いしてる、よね?」
ふたりは顔を見合わせてうなずくと、そのままガサガサと茂みに入っていく。すると数歩も進まぬうちに、丁字の石弓が現れた。
枝葉に巧みに隠しながらも、石弓の射線だけはきっちり確保されている。
陰気は弓を中心にひたひたと満ち、それを覆い隠すための結界も張られている──やはり、仕掛け罠だ。六花は石弓のそばにしゃがむと、様子を伺った。
「なんか、術者を特定されたくないみたいな陣だね」
弓を取り囲む結界符の墨痕は、比較的新しく見える。しかし、筆跡はお手本通りというべきクセのなさで、仕掛けた人間の人格は読み取れなかった。
結界の張り方もそつがない。全体的に、術者の用心深さがうかがえる陣だ。
六花は、結界を構成する札を一枚、そっと剥がした。とたんに、ぞわりと解き放たれる冷気。法衣の中にも薄ら寒い空気が入り込んで、おもわず身震いする。
「こりゃ、思ったよりやばいのに当たっちゃったかな」
ふたりは慎重に結界陣の中へ踏み込んだ。よく見れば、中央の仕掛け弓にも札が貼られている。形式自体は五大山のものに似ているが、解釈不能な字も使われていた。
「幽冥地府の札に似ていますね。でも、読めない記号も多い」
符をしばらく観察した皐月が、ぽつりとつぶやいた。
「五大山の術式って考えても、同じような感じ。変だよね」
六花は妙な文字の書かれた札に手を伸ばす。
「どっちにせよ、この札をはがせば止まりそうなんだけどなぁ」
そのとき、皐月の眉がぴくりと動いた。札の下のほうが、わざと文字列を隠すように、二枚重ねに見えたのだ。
札に書かれる文字は、その結界の持つ効力そのもの。隠すように書かれるなら、そこには何か、隠しておきたい別の意図がある——
「……六花、待ってください!」
皐月の警告が届くより早く、六花の指先が札を剥がしきった。
瞬間、仕掛け弓がぐにゃりと形を変え、あたりにどす黒い煙が満ちる。煙の中から現れたのは──ひとりの女性。
しかし、すぐにそれが人ではないとわかる。ひじから先は、黒ぐろとした鳥の翼。藍の着物からのぞく脚も、鋭いかぎづめを持った鳥のものだ。
その異形の翼には、ぼろ布が抱かれている。赤子のおくるみのような形だが、中身は空っぽに見えた。
「……姑獲鳥!」
皐月が、うめくようにつぶやいた。
六花も反射的に飛び下がる。濁ってうつろな、死人のような目──声は、届きそうにもない。
「これ自体が、罠ってことか!」
六花は皐月を背中に庇うと護符を取り出し、防護の簡易結界を張る。
皐月は何か言いたげな顔をしていたが、それどころではない。
「皐月はそこにいて! 危ないから出てきちゃだめ!」
続けざまに、数枚の符を宙に放った。六花が印を結ぶと、符は発火して怪異に貼り付く。
────たまたま燎火符を持っててよかった。威嚇ぐらいにはなるはず!
姑獲鳥も低くうなると、姿勢を低くした。六花の隙を狙っているようだ。
ふたたび六花は懐に手を突っ込むと、護身用の独鈷杵を取り出した。ただの法具ではなく、五大山の法術が仕込まれたものだ。幽冥地府の陰気を持つものに対し、焼き鏝のような効き目をもつ。
皐月から姑獲鳥を引き離すように駆けながら、六花は調伏の経文を詠唱する。握った独鈷杵が発熱し、力を増していくのがわかった。
六花はそのまま、皐月のいる結界の真反対に回って姑獲鳥を煽る。追ってくる怪異に、そのまま独鈷杵を振り下ろした。
続けて護符を──
「……! うわ、まずった!」
懐に入れた手が空振りし、六花の顔に焦りが浮かぶ。
もともと、護符の残りはほんの数枚だったのだ。その数枚も、さっきの結界と威嚇で派手に使い切ってしまったらしい。独鈷杵もあくまで一時しのぎ用で、相手を無力化するほどの力はない。接近した姑獲鳥にかろうじて掌底を食らわせたものの、敗色は濃厚だ。
────せめて皐月は、あの子だけは逃がさなきゃ……!
『敵を倒す』から『緊急避難』に目的を切り替えた六花は、近接戦をなんとかしのぎながら、皐月を守る術を考える。
しかし、結界を気にかけて視線をそらした一瞬のうちに、姑獲鳥が距離をつめていた。避けきれない位置から、鋭い鈎爪が六花の首を襲う。
────やばい!
受傷を覚悟して、ぎゅっと身を固くする六花。
しかし、十秒、二十秒と待っても、恐れていたような痛みはやってこなかった。
「あれ……?」
きつく瞑った目を、こわごわと開く。そこにいたのは、怪異ではなく──つややかな黒衣を纏った、長身の女性だった。
彼女は右手を胸の高さに上げ、かざすだけで姑獲鳥の動きを止めている。その周囲の空間は水面のように歪んで、大きな力がはたらいているのがわかった。
長い黒髪がたなびいて、白皙があらわになる。動きの無造作さとは対照的に、その横顔からのぞく瞳は澄んで鋭い。きゅっと引き結ばれた唇の紅色が、刃のような美しさをいっそう引き立てていた。
歳は二十代の半ばぐらいだろうか。威厳に満ちたその顔立ちに、六花はふと、夢で見たあの女性を思い出す。
皐月が大きくなったら、ちょうどこんなふうに──
「あ、皐月は!?」
はっと我に返って、六花は慌てて後ろを振り返る。しかし、さっきまで張っていた防護結界はもぬけの殻で、少女の姿はない。
「逃げ切れたかな。大事なもの、取りに行けてるといいんだけど……」
そう呟いた六花は、ふと注がれる視線に気づく。
切れ長の瞳が、じっとこちらを見つめていた。安堵の色を浮かべながらも、どこか悲しげな表情だ。
「……あなたに、この姿を見せたくはなかったのですが」
小さくこぼれた声に、六花は首をかしげる。彼女の手元の空気がぐにゃりと歪み、六花を追い詰めた怪異はあっけなくねじれの中に吸い込まれた。
そして山中に、静寂が戻る。視線を合わせたまま、女性はゆっくりと目をしばたたかせた。
「皐月は、私です」
「え? だって皐月って、さっきまで……」
飲み込み切れない六花。
皐月と名乗った女性は、どこか怯えたような声で問い返した。
「私が、怖いですか?」
威厳に満ちたおもざしに、ぎゅっと力が入る。
まるで何か、悪いことをして叱られるのを待つ子どものような──その顔が、何かをごまかそうと目を逸らした少女の表情と重なった。
「……怖く、ないよ」
六花は、安心させるように、にへらと笑った。
「きみは、あたしの言葉を信じてくれたでしょ。それに、命がけで助けてくれた。怖がる理由なんて、どこにもないよ」
じっさい、何がどうなっているのか、まったく分からない。でも六花には、少女と同じ不安げな目をした『皐月』を突き放すことはできなかった。
その言葉に、『皐月』は、わずかに目を見開く。そして何か言いかけ、逡巡して、また口を開いた。
「六花。あなたを、ずっと待っていました。──私に、ついてきてください」